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国道48号線 旧関山峠 宮城側 前編

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国道48号線 旧関山峠  道にまつわる悲しみ (宮城側前編)【廃道・廃橋】【宮城・歴史】

 

 

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 関山峠は、国道48号線の宮城-山形県境に存在する峠で、国道48号線最大の難所です。現道は旧道と比較して大幅に改良されていますが、それでも苦手意識を持つ方はいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 関山峠に車両が通行できる道が開通したのは明治15年(1882年)。今から約138年前のことです。一方、現在の関山トンネルが開通したのは昭和43年(1968年)。旧関山峠は約86年間利用された計算になります。

 

 関山峠の航空写真です。現道が開通した8年後に撮影されたものですので、旧道の痕跡もまだ鮮明に確認できます。

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 青線が現道です。情け容赦なく山中をぶち抜いて峠を越えている様子がわかります。
 一方旧道は地形に逆らわず、かつ隧道の掘削長も最小限になるような位置を選んで続いているのがわかります。

 旧道の現状を確認してみましょう。

 

 

 とある休日、宮城側の旧道を探しにやってきました。山形側については以前探索したことがあるのですが、宮城側については入り口がわからずそのままになっていたのです。 

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 以前車の車窓から一瞬確認できた石碑に向かって進んでいます。おそらくそれが旧道関係の石碑で、近くに旧道へのアプローチ箇所があると踏んでいたのです。

 

  しかしこの石碑、現道から到達できるような道が全く見当たりません。そのためこうやって川の中を進んでいます。この川は仙台市内を流れる有名な広瀬川ですが、源流域はこんなに細い流れになるんですね。うまくやると濡れずに移動することができます。

 

ようやく到達し、石碑を確認しますが・・・

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  記念碑ではなく、旧道建設中に亡くなった方の慰霊碑でした。

 

  石碑の裏側に書かれている文言は・・・ (一部自体を変更)

 

 明治13年7月21日 爆死せる23名、街道殉難者50年忌に当たり  

 各方面の賛助を得、浄財の喜捨を広く十方に仰ぎて建立す

                          昭和四年 

                  発願者 養泉寺二十世  中里康雄

                  協賛会 高崎村長    今野久一

 

 

 労働災害が現在よりも格段に多かった時代とはいえ、さすがにこの事故が当時の世間に与えたインパクトは大きなものだったでしょう。

  ちなみにこの石碑の揮毫者は・・・

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  子爵 三島通陽  

とあります。

 この道路の建設を推進した、有名な「鬼県令」三島 通庸のお孫さんですね。

wikipediaによると、貴族院議員、参議院議員、小説家、劇作家にして日本にボーイスカウト運動を広めた人物としても有名とか。 1965年没。

 

 

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 石碑に合掌してから周囲を探索します。江戸時代にはここに番所があったようです。番所とは、江戸時代に国境などの重要か所に設置され、通行人や荷物の検査や徴税などを行っていた役所のようです。

 

 

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 どうやらこの辺り江戸時代の関山街道の跡のようです。旧道ではなく旧旧道に来てしまいました・・・やはりちゃんと下調べしてから来るべきでしたね・・・

 

 しかしそのまま帰るのももったいないので街道を少し歩いてみます。ところどころにピンク色のテープが貼られていて道案内してくれます。

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街道から見た番所跡。川の中州のようなところに設置されていたようです。

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 しかしこの街道、最初は登山道のような歩きやすい道だったのですが、少し進むと・・・

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 ピンクテープはこの斜面を登れと言っています・・・

 なにかの間違いかと思い別の場所も探ってみましたが、やはりほかに道はなさそうでした。ロープも設置されているので登れなくはありませんが、斜度は目測で60度前後、しかも万が一転げ落ちると一気に先ほどの番所跡の高度まで落ちてしまいかねない立地です・・・

 5メートルほど登ってみましたが、まだ先がある・・・単独行で何かあっては良くないので今回はリタイアです・・・

 

 

 しかし、この街道跡の斜面で、ちょっと気になるものをみつけました。

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 上の写真右下の白い部分をクローズアップしたもの。

 この部分、町中の急坂で時々見かけるような、セメントの表面に石を埋めて固めたような構造になっています。斜面の一部だけ施工されており、土砂崩れ防止のためのものという感じもあまりしません。おそらくは登坂者の滑り止め機能を期待してのものでのように思われます・・・

 

 

 実は、この傾斜道はさらに上で後編で紹介する旧道と交差することになるのですが、旧道探索時に撮影した傾斜道上部の様子がこちらです。

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 写真ではちょっとわかりづらいですが、青で囲んだ部分は近くで見ると明らかに自然石ではなく人工的にセメントで固めた痕跡が見られます。

 

 

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 青丸個所の一部を拡大したもの

 

 不思議に思うのは、これがいつ、どのような目的で施工されたのかということです。

 江戸時代にはおそらくセメントはなかったでしょうから、それより後ということになると思うのですが、江戸期以降この街道はとっくにその役目を終えているのですから、原則として補強工事をするような必要性は認められません。

 

 私が思いつく限り可能性は二つ考えられます。

 一つは、この街道跡は先ほど紹介した通り(マニアックな)観光客の来訪を期待しているとみられることから、そのような観光整備の一環として舗装されたという可能性。

 

 しかし、現地を見る限り、セメントの様子はかなりの古さを感じさせるもので、また昔ながらの街道を探索したいというような人は、近代を連想させるセメントで固められた道を歩きたいとは思わないようにも考えられます。

 

 ちょっと話は逸れますが、もう一つ気になるのは、爆発事故を起こした火薬の集積所がなぜ直下の番所跡に置かれていたのかということ。もちろん、そこがそれなりの広さのある平場だったから、というのが最大の理由だと思いますが、道が仙台側から順次造られていったのだとすれば、後ほど紹介する旧道の分岐箇所付近など、左岸側の別の場所に設置するほうが作業効率がいいようにも思われます。

 

 このように考えていくと、番所跡に火薬集積所(おそらくその他の物資も集積されていたと思われる)が設置されたもう一つの理由は、そこが江戸時代の旧旧道の玄関口だったから ということにもあるように思われます。つまり、江戸時代の旧旧道が、旧道建設のための作業道として使われたのではないか、ということです。

 

 そこがメインの作業道だったのか、メインの道路建設に先行して隧道などの発破作業を行う班のためのものだったのかはともかく、そこが作業道として機能していた可能性は十分あるように思われます。

 

 長くなりましたが、お察しの通り、セメント舗装されたもう一つの可能性というのは、旧道建設の作業道として利用するために明治期に施工されたのではないか、というものです。こんな急傾斜を作業道として利用できるのか、という向きもあると思いますが、江戸時代には背負子を背負った人々が物資を運んでいたようですし、曲がりなりにも道である以上、それを利用して工事を進めようと思うほうが自然なようにも思われます。

 

 もっとも現在のところそれを裏付けるような証拠が手元にあるわけではありませんし、そもそも明治初期にセメントがあったのか、とか、気になる点はいくつかあり、完全に荒唐無稽で全く別の目的で施工されたものかもしれませんが、もし当たっていたとすれば旧道建設の際の貴重な遺構ということになるかもしれない、と思います。

 この説の正否についてなにか情報が見つかったら順次ご紹介します。

 

 

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 旧旧道からの探索は断念し現道を上流側に進みます。向かって左手、向こう岸に明確な道の痕跡が見えてきました。事前に下調べをしてから来ればこんな苦労はなかったんですけどね。。

 

 

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 そこから川面まで下りて右岸側に渡れる箇所を探していたところ、向こうに現道と接続する橋が見えてきました。現道から気軽にアプローチできますね。。事前に下調べしてから来れば(ry

 

 しかしこの橋、相当に老朽化というか、風化が進んでいます。関山峠付近はかなりの豪雪地帯ですし、管理されなくなったコンクリート橋にとっては過酷な環境なのでしょう。

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 動画で解説した丸鋼。戦前に建設された橋であることはほぼ間違いないように思われます。

 

 

 下流側の水面を見ると、不自然な三本穴が・・・

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 おそらくですが、今あるコンクリート橋ができる前の橋の痕跡ではないでしょうか。先代の橋は木橋で、ここに木製の橋脚をはめ込んで利用していたとか・・・

 

 

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 いよいよ旧道の上に立ちます。旧道はここからほぼ180度ターンして現道に合流していました。しかしこの橋、橋上での離合はかなり困難に思われます。現役時は一体どんな交通状況だったのか気になるところです。

 

 

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 橋の付近に一基の石碑が佇んでいます。

 

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 正面には「交通安全慰霊碑」とあり、おもちゃが供えられています。現在でもお参りに来られる方はいらっしゃるようです。

 石碑の裏側の説明を見ると、昭和41年のある日、この場所で2名の方が交通事故でお亡くなりになったとのこと。

 現場の状況を考えると、カーブを曲がり切れなかったのでしょうか、それともブレーキ故障でしょうか・・・詳細は不明ですが、お亡くなりになった方のご冥福を祈りつつ合掌します。

 

 後編に続く